この季節、よく朝靄のなかを大好きな人とお酒を飲んで帰ったことがありました。
自然に手をとり、時より彼に頼るようにして自分の家に向かって、空車のタクシーを横目にみながらあてもなく歩いたものです。そんな夜の時間が朝の光に変わる、あの微妙な瞬間、空の色、空気の流れが私の中ではなんとも気持ちよく、美しく感じられたものでした。臆病で、我侭で、実はなかなか自分を上手に表現できなかったあの頃の私は、こんな時間や空気の力を借りては、その時の自分の気持ちを彼に分かってもらおうと必死でした。自分だけを見ていて欲しい、自分だけを求めて欲しい、そんなまっすぐ過ぎる気持ちが、若い私の精一杯の愛情表現だったと記憶しています。お金はないけれど、時間と、正直な気持ち、愛だけを振りかざしては自分で自分を苦しめていたあの頃。
それでも、そんな私を同じようにまっすぐに受け止めてくれた人に出会いました。
同じように、臆病で独占したがりで、我侭で、でも自分の気持ちがなかなか上手に伝えることが出来ない、まるで分身のような人。そして似すぎていることは時には心地よく、時には傷つけあうことになるとはそのころの私には知る余地もありませんでした。何度も一緒に食事をしたり、映画を見たり、ドライブしたりしながら、少しづつ気持ちを確かめたり、伝えたりしていったあの頃。それでも、なかなか上手に、思うように進んでいくことが出来なかった日々。それが、或る日、夜の時間と朝の光が交差する時に、はじめてどちらともなく自然に唇を重ねることが出来ました。本当にどちらからともなく、自然に。体の中にずーっと隠れていた思い、心の磁石が引き合った、あの瞬間、私はその人を誰よりも愛しく大切にしたいと叫んでいました。
まだまだ、自分のことが何も出来ていないのに、あの瞬間、この人だけは守りたいと思ったのです。誰かを好きになることを恐れていた私には、考えられないような力が湧いてきたのです。あれから、いくつかの恋をし、人と暮し、大人になった今も、時々あの時の自分の気持ちを思い出し嬉しくなるのです。人を慈しむ気持ち、求める気持ちを失うことなく生活するのはとても難しいけれど、この季節あの光を美しいと思えて、空気を気持ちいいとまだ感じている自分をなんとなく誇らしい気分になるのです。大人になっても忘れたくない気持ち、人を愛しく大切に思える女でありたい。仕事を理由にして、自分のそんな部分にふたをしたくない、、、、と。
あの時のようにあまりにも自然でドラマチックな恋の始まりは、もう二度と無いかもしれませんが、あの瞬間のあの日があるから、自分らしく人を好きになることができるようになったのだと、今でも彼には心から感謝しているのです。 最近、若いころのことをよく思い出すのは年をとった証拠?でしょうか。
それとも、そんな人間らしい生き方をしたい気持ちが強くなったからでしょうか?
自分探しはまだまだ続きます。
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