OLD midroom

30代で考えていたこと、5

こんな状況の中でも、私は頑張って働いていました。
何故なら、新宿店がオープンして3年目に入りやっと(売上の)数字も、認知度もあがってきて、今度は、新宿の2倍に近い広さで横浜に2号店をオープンすることが決まったからです。
また、この時の細かいオペレーションや、レセプションのやり方、宣伝方法などが、今度は、日本側の主導で決めてもいいということになりました。もちろん、個人的にはかなり落ち込んでいた時もありましたが、それ以上に私の中では、今度は自分達で何でも決めれる、N.Y.本社に提案できる事で、やる気も満々、会社全体も一致団結し、皆の心も一つになってきていました。たぶん、合弁会社で働いた方であれば、何度か同じように感じたことがあるかもしれませんが、本当に○○ジャパンのつらさが、ここで晴らせる・・・。そんな意気込みで皆が、動きだしていました。何も、常にN.Y.本社の顔色を見るというわけではありませんが、やはり意識したり、お伺いを立てたりしなくてはならない環境でしたので、そこがない、任せてもらえるということは、願ってもいないチャンスでした。そして、今までにやったことのないような、楽しくて、かっこいいレセプション、また横浜という場所のことを考え、そこでしかできない(例えば、海や、船を使った)ものなどを考えました。

ご招待するお客様も100名規模、今までにない、かなりのスケールでした。もちろん、予算がたっぷりあって、何でもしていいというのであればやりたいことは全てやれるのですが、私の仕事はどうしてもその費用対効果がわかりにくい部分もあるので、その点が常に葛藤ですし、課題です。この時も、毎晩その費用、予算とにらめっこをし、また広告代理店とも何度もやりあった末にいろいろなことが決まっていきました。そして、オープンのl週間前などは、横浜という地の利のせいもあり、なんと車でいつもなら30分も走れば家に帰れるのに、横浜のホテルに泊まりこむほど、緊迫した状況でした。

お店の中に洋服が届いては並ばせ、また届かない場合はどうするのかも考え、一歩進んでは、また後退するところが見えてきたりと、社員の皆でいくらやっても追いつかない、そんな日々でした。楽しくて、でも苦しい、オープンとはそんなものと毎日興奮状態でした。この頃、わたしはある人と知り合い、とても惹かれていきました。離婚をし、一人の生活のほうが楽、自分には結婚は向かないし、今のこのバタバタ環境には誰かを好きになるのは、面倒くさいし、もしかしら邪魔になるかもしれない、そんな風に考えてもいました。

でも、不思議なもので忙しくなればなるほど、好きな人と会いたい、好きな人と一緒にいたい、そういう時間を持ちたいと思うようになりました。でも、その反面、理由は何にしろ、一度失敗した私としてはどうも踏み出せない感じもありました。しかも、彼は6歳も年下というのもかなりの戸惑いでした、だって今までず~っと自分よりも年が上の方としかつきあったことがありませんでしたので・・・。でも、その頃の私にとっては、彼がいるといないとでは、かなり違っていたと思います。もともと会社の話はあまり私生活ではしない私ですが、なんとなくホッとする時間を与えてくれたり、応援してくれたりで、とてもいい気分で働いていられたからです。もちろん、まだ出逢ったばかりで、何の約束も決め事もしてはいませんでしたが、以前とは違う関係が作れそうな・・・そんな予感もありました。大人になってからの、出逢いですので自分を無くさずにやっていきたい、不安と喜び、信頼と尊敬、そして何よりも自分の気持ちに正直になれるかと、日々、自問自答していました。本当の自分の気持ちを確かめるために。

そんな中、遂にオープンの日を迎えることになりました。泊まっていたホテルから、車でお店に向かう間、久しぶりに緊張して手が震えながら運転して行ったことを今でも思い出します。
1993年8月末、朝6時、自分達のこの何ヶ月かをかけて準備していたことの結果が問われる日が、そして私にとっては忘れられない一日がスタートしました。
つづく

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